私がその日婚姻届を出さなかった理由

こんなことをこんな風に書くのもどうかと思いつつ、生まれ持った業ゆえにお許しいただきたいのだけれど、今年の5月5日に入籍をしたのだが、本当は大安の5月3日に籍を入れようと目論んでいたにも関わらず、「とある理由」でその日を諦めたことについてである。

予定していた5月3日は連休中ではあったがご存知の通り区役所は深夜でも婚姻届を受け取ってくれるわけで、昼間は都合があった私たちは夜に出かけていった。

あいにくその夜は雨が強く降っておりタクシーでびゅーんと役所に向かったもののなんとなく暗くてジトッとしていて、決して明るい未来のはじまりを飾るには向いているかと言われれば決して向いていない状況だったわけだけれど、夜とか雨とかそんなものに負けているようじゃこの先も思いやられるというか、夜すらロマンティック、雨すらいい思い出にできてはじめて夫婦になれると誰が言っていたわけでもないけれども、まあまあそんな面持ちで書類を濡らさぬように向かったわけである。

区役所は当然夜間受付窓口しか空いておらずビチャビチャと歩いていくが誰もいない。警備員がいるはずで彼に預けて後日受理されると聞いていたのだが、警備員の姿が見えない。しかし受付の電気はついている。おかしいね、なんて濡れた服を拭いたりしていたら、薄暗い役所の奥の方から物音がした。

廊下の少し先にある扉が開いて光がもれている。どうやらそこはトイレである。中から警備員のおっさんが出てきた、のはいいのであるが、彼も当然こんな夜に来客とは思っていなかったのであろうか。

用を足したときに下げたズボンを上げきらずに出てきていたのである。両手でチャックやらベルトやらをガチャガチャしながら歩いてきたのだ。そして私たちに気がついたのだが、その時も両手は股間にある。

私は数十秒後の未来を想像する。「あ、婚姻届です」と私たちがそれなりの緊張と覚悟をもって書いた書類を差し出す。「あ、確かに受け取りました」と警備員は書類を両手で受け取る。

ちょっと待て。私たちの婚姻届を触る前に彼が触ったものは股間だということになる。しかもズボンも上げずに出てくるくらいの人だ、ちゃんと洗っているのかどうかも疑わしい両手である。

夜にも雨にも負けずになんとかここまでやってきた私ではあったが、警備員の何かしらで濡れた両手には勝てる気がしなかった。「受け取りできますよ」警備員は笑顔でそう言った。もちろん悪い人ではない。どうする。35歳まで生きてきてこんな小さいことを気にする男を嫁はどう思うだろうか。

度量が試されているのだろうか。でも嫌だ。嫌だよ。今日という日を思い出すたびに、きっと「ガチャガチャ」というチャックやらベルトを触る音が聞こえ、雨に濡れないようにと大事に持ってきた婚姻届がおっさんの何かしらであっさりと濡れて広がる染みが瞼の裏に浮かぶ。そんな日にはしたくない。

「今日はやめておこう」

何の説明もせずに私が発したこのひと言は土壇場マリッジブルーとも取られかねない危険なひと言だったと思うけれども、嫁は私のテンションが警備員を見た瞬間に急激に下がったことを察していたらしく、ただ「わかった」と言った。そうして私たちは出さなかった婚姻届を濡れないように、濡れないように、行きよりもいっそう大事に抱えて帰った。

しかしである。翌々日の5月5日の晴天の昼間に警備員ではなく嘱託職員に無事提出したのだが、あれから4ヶ月が経ち、「どうして5月5日にしたの?」と聞かれるたびに本当のことは言わないまでも、結局私の耳には「ガチャガチャ」という音が聞こえ、瞼の裏には広がる染みが浮かぶのである。

原因は回避するだけでは駄目なのだ。向き合って解決しなければ原因はついて回るのである。

私はあの時、警備員に「もう一度手を洗え」と迫っておかなければならなかったのだ。

せめてこれからの夫婦生活の参考にしたいと思う次第である。

ベテランになることに抗う明石家さんま

明石家さんまはもう30年以上、お笑い界、芸能界のトップにいる。

トップ、という表現にはいろいろな解釈があるが、ここでは後輩の役割を演じなくていい立場という解釈とする。

「さんま御殿」というレギュラー番組はもう20年以上も続いているわけだが、あの番組は明石家さんまというタレントがトップであることの証そのものの番組である。

一人対複数人で場を回し続ける能力という意味ではない。ナンシー関も指摘していたが「さんま御殿」は時々、いや、ほぼ毎回、さんまが笑いを出演者に指南するという流れが見られる。「笑いに厳しい」「笑いにこだわる」という姿勢そのものを大袈裟にとって見せて芸にしているのだ。

その流れに組みこまれた瞬間にそれなりの中堅芸人も、時には大物俳優も「さんまの後輩」になる。「後輩の役割」を演じることになる。逆に言えば30年近く明石家さんまは「先輩の役割」を演じてきたわけである。

であるのにまだ消費され尽くしていないことは当然凄いわけだが、(前置きが長くなったが)言いたいのはその凄さではない。30年以上そのような「先輩の立場」にありながら、明石家さんまという人はメディアを通して自身の「思想」を言わないということの凄さなのだ。

少なからずチカラを持てば、自身の世の中への「思想」を言いたくなる。居酒屋に置き換えたって上司が部下に話すのはたいてい「自分の世の中への思想」だ。明石家さんまは日本有数の「それが許される立場」であるにも関わらず、また賛同する人も多くいるにも関わらず、その手の番組をやらないしほぼ言わない。

立川談志ビートたけし島田紳助松本人志太田光たちを見ても分かるが、その唯一無二の洞察力を持つ人たちはどうしたってそっちへ行かざるをえないはずなのに、未だに誰も明石家さんまを「芸能界のご意見番」とは言わないし、何かの事件に対してネットニュースなどでよくあるその事件に対する芸能人のコメント一覧に彼の名前が出ることはほとんどない。あれだけ喋っているのに、である。

社会風刺の笑いが嫌いとか、そもそも世の中にさほど興味がないとか、熱くなることへの嫌悪感とか、いろいろと理由は勘繰れるけれど、どれもあまりしっくりこない。つまり社会風刺の笑いが嫌いとか、世の中に興味がさほどないとか、熱くなることへの嫌悪感とか、それはそれで「思想」だからだ。なんか似合わないのである。

同じように「世の中に物言わぬ」ように見えるタモリからは上記のような「思想」を感じるが、さんまからは感じない、または似合わないのだ。だが、気がつくのは、だから明石家さんまは若いのではないかということだ。

世の中に意見をするということや、思想を明らかにすることは自らをベテランだと言うようなものである。「ベテランの役割」なのだ。

しかし、前述したように明石家さんまは「先輩の役割」をこなしてこその芸風であり、笑いを指南することがギャグにならなければならない。ベテランの指南ではギャグにならないのだ。

微差に見えてこれはけっこう違うのだ。以前ビートたけし8.6秒バズーカーを「バカ大学の文化祭」と言ったことがあったが、真意とは無関係にその影響力のせいでそのひと言は批判になってしまった。ベテランの指南に見えたからだ。

明石家さんまはこれを避けているのだと思う。60歳を過ぎても20代の女優に付き合ってくれと言うのも、他の出演者の話も聞かず自分が喋るのも、あくまで「明るい先輩」という佇まいを維持するためだ。その方が同じ言動でも見ている人が笑えるから。

60歳の明るい先輩。

やはり、この人のタレントとしての「華」は芸能史上最も大きい。

あいつ今何してる?と言える、言われる幸せ

テレビ朝日で放送されている「あいつ今何してる?」。有名人の学生時代の同級生を探すという今までにもあっただろう内容の番組だけれども、ある工夫によって新鮮な発見のあるバラエティになっている。

本来この手のゲスト系バラエティはその面白さは毎回のゲストにかなり左右されるはずで、それは番組に出演する有名人のメジャー感や珍しさが毎回異なるという如何ともしがたい理由があるわけだが「あいつ今何してる?」にとっては関係ないのである。

なぜならこの番組のある工夫とは「探された同級生」という素人を主役にすることだからだ。たまたま有名人と学び舎を共にしたただの素人を主役にするのだ。だから彼、彼女の同級生である有名人がメジャーだろうがテレビに出るのが珍しい人だろうが関係ない。素人の人生を見せる番組なのだ。そしてこの番組は当然ながらその素人の人生を「有名人が語る学生時代の彼、彼女」という思い出からスタートして振り返っている。

たとえば美しい女優が「○○くんは仲良かったですね、勉強もできてよく宿題見せてもらってました」と語る。たとえば飛ぶ鳥を落とす勢いのお笑い芸人が「○○さんは可愛かったなー。人気者だったんで話しかけられなかったですねー」と語る。たとえば日本を代表するスポーツ選手が「ライバルといえば○○ですよ。お互いめちゃくちゃ意識してて」と語る。

有名人が誰も知らない素人を紹介するということの紹介力の強さはもちろんありつつ、ここで大事なのは当時のことをかなりちゃんとベタに紹介しているということである。ちゃんとベタに紹介することで見ている人にも普遍性のある「同級生」になるのである。「勉強ができた奴」「可愛くて話しかけられなかった子」「部活でライバル視していた奴」は番組を観ている多くの人に思い当たるのである。同級生として思い当たる人がいるのである。

さらにこの番組は有名人と同級生を無理矢理会わせたりはしない。最初に同級生を紹介したあとはスタジオの有名人はただワイプでリアクションをしているだけで、見ている側からすると次第に有名人とその同級生が切り離され、ひとりの素人が主役になっていく。その人生が語られていく。知らない人の人生なんて誰が見たいんだ?と思いそうなものだけれども、ついつい見てしまうのは、普遍性のある「同級生」たちのその後をみんなが知りたいからだ。勉強ができたあいつはどうなったんだろう。可愛かったあの子はどうなったんだろう。ライバルだったあいつはどうなったんだろう。自分の同級生とどこかで重ねながら会ったこともない素人の人生を見てしまうのだ。

そして「あいつ今何してる?」を見ていると同級生たちが一様に言うことがある。それは「憶えていてくれてありがとう」という言葉だ。クラスの中から出た有名人は一方的にみんなにその後の人生を知られている存在だ。そんな彼、彼女が自分のことを憶えていたということへの感謝と驚きは当然だ。しかも名前だけでなく「勉強ができた」とか「可愛かった」とか「ライバルだった」とかパーソナリティまで憶えてくれていたのだ。

この番組の感動はここにあって、同級生たちもそれぞれにいろいろな苦労や選択を経た人生のある地点で、唐突に誰かが憶えてくれていることを有名人という「同級生の中でも昔のことなど憶えていなさそうな人」を通して知らされる。SNSでつながってなくたって憶えている。当時のことを憶えている。これは嬉しいのである。

「憶えていてくれてありがとう」。今まで会うこともなかった、これから会うこともないだろうけど「憶えていてくれてありがとう」。

それだけで、人生悪くないかなと思える。いろいろあるけどまあいいかなとも思える。

つまりこの番組タイトルでもある「あいつ今何してる?」と誰かの顔を思い浮かべながら言えるだけで、または言われるだけで豊かなことであり、人生悪くないかな、まあいいかなと思える書いたが、寧ろ本当はそれしかないほどに貴重なことなのだなと、見知らぬ同級生に教えられるのである。

人類が二度と見られない負け姿 吉田沙保里

レスリングに詳しいわけではないが、吉田沙保里選手には思い入れがあった。もちろん勝ってほしかった。みんなが期待をしすぎたせいだと応援した人たちが妙な反省をするのは違う気がしている。勝ってほしかったし、勝てると思っていた。それだけ圧倒的だったはずだった。国民の期待など当然のものとして結果を残してきた人なのだから。

「取り返しのつかないことになってしまった」と試合直後のインタビューで彼女は泣きながら言っていた。その言葉を聞いたときには、私もどれほどの重圧だっただろうかと前述の妙な反省をしたが、今はその言葉に違う凄味を感じている。

吉田沙保里はオリンピック3連覇、世界選手権においては13連覇という実績を残してきたトップ中のトップアスリートだ。誰もその栄誉に口を挟む者はいない。これ以上の栄誉を求めようとしても、与えるものがなくて困ってしまうほどの人だ。

それなのにまだ、彼女にとっては銀メダルが「取り返しのつかないこと」なのだ。「泣きじゃくって子供のように謝るようなこと」なのだ。

考えられないほどの負けず嫌い、考えられないほどのハングリー精神、考えられないほどの純粋さ。世の中は誰も責めないのに、吉田沙保里というただ一人が自分を責めていた。

以前、彼女は手記で「私はいまでも5歳で初めて試合に出たときのことが忘れられません。男の子と戦って負けてしまった私は、無性に悔しくなって泣きじゃくりました。そして、私に勝った男の子が表彰式で、金メダルを首にかけてもらっているのを見て『私もあれがほしいよぉ』と父に訴えたのです」と書いていた。

昨日の彼女もそのころと同じなんだと思った。33歳で絶対王者と呼ばれるようになっても、過去に世界大会だけで20個近くの金メダルを獲得していても、5歳のころと同じように泣きじゃくり「金メダルが欲しいよぉ」と言っている。

金メダリストとなった10歳近く若いマルーリスも、吉田沙保里に憧れて成長してきた選手だという。であるならば、たとえ負けても偉大なる先輩として後輩にバトンを渡すような余裕のある佇まいを見せることだってできただろうし、それが許される選手だ。だが、吉田はそんなポーズは取らなかった。負けた瞬間にうずくまり大泣きした。

しかし、マルーリスはそれこそが、憧れつづけた吉田沙保里の絶望こそが、何よりも嬉しかったはずだ。金メダルよりも価値があると感じたはずだ。本気であったことの証を、恥ずかしげもなく見せてくれたことが有難かったはずだ。

ここまでの実績のある王者にしか見せられない、人類にとって二度とない、貴重な尊い負け姿。

勝ったままで身を退くスターももちろんかっこいいが、負けた姿を見せられるスターには身を退いたあとに残る意味がある。

誰も寄せつけずに勝ち続けてきた彼女がたくさんの人に大きな影響を与えたように、誰も近寄れないほどに泣いた昨日の負けもまた、たくさんの人に大きな影響を与えていくのだ。

表彰式で喜ぶマルーリスと、スタンドで唖然として涙を拭うことすら忘れていた登坂絵莉を見て、そう思った。

第8回AKB48選抜総選挙 指原莉乃が背負ったもの。

243,011票。

今回初の連覇を成し遂げた指原莉乃がひとりで集めた票数は、あの前田敦子大島優子が最後に雌雄を決した総選挙でのふたりの獲得票数を足した数字に匹敵する。昨年の指原自身の獲得票数から見ても5万票も上乗せしてきた過去最高の票数だ。5万票とは、今回で言うと12位である北原里英の票数とほぼ同じであり、つまり指原は今年上乗せした数字だけでも選抜メンバーの16位圏内に余裕で入れるのだ。

「この壁は誰も越えられない」

惨敗(あえてこう書くが)した2位の渡辺麻友は壇上でついにそう言った。みんなが薄々思っていたが、言ってしまっては終わってしまうこの台詞をついに言った。渡辺にしても個人的には17万5千票という過去最高の数字を叩きだしていたにも関わらず、そしてまだ指原が何票獲得したか聞いていないにも関わらず、「この壁は誰も越えられない」と断定した。それがどんな壁なのかも分からないけれど、「自分のやり方」では越えられないということだけは確かであると実感しているといった物言いだった。

指原の票数の理由を語るときには、アイドルの中にタレントの知名度が混ざっているからだとか、HKTという組織をまとめあげているからだとか、露出が段違いに多いからだとか、いろいろと憶測が語られるが、本当の理由は分からない。しかし裏返すと「本当の理由は分からない」と言わせてしまうのが彼女の、彼女だけの凄味なのである。つまりは、その憶測される理由はきっとすべて正解だからだ。いくつもの理由が集まっているからこそ、243,011票なのである。

最初は「指原が1位になったらAKB48は面白い」という動機が確かにきっかけであったのかもしれない。ただそれは、前田・大島以後の新体制をファンもスタッフも無意識に模索していた数年前、決定的な次世代が台頭していなかったこともあり、指原というトリックスターをあくまで「つなぎ」として1位にしたら面白いというレベルでの「ムード」にすぎなかった。

しかし指原莉乃はその「ムード」に全力で乗り、乗り続けることでムードをムードでなく事実にして、果ては「誰も越えられない壁」にした。運や流れを一過性のものにしないためのこの数年間の彼女の才覚や努力はずば抜けていた。彼女はその活動がアイドルの域を超えているのだからと否定的な意見も耳にするが、その場所に行くための才覚や努力がアイドルの域を超えていただけなのである。だが、その無駄のない、パワフルな年月にも葛藤があったことを昨年のスピーチでは語っていた。

「AKBはそんなに簡単な場所じゃないです。たくさんの人が悩んで悩んでやっとここまできています」

前田・大島が卒業したころ、私は今後のAKB48はアイドルの先頭を走る存在として「指原的」か「渡辺的」か、どちらの価値観をアイドルとして是とするかが分かれ道であり、またその価値観の切磋琢磨がより組織を強くするだろうと書いていた。

つまづく姿を見せることで勇気づけるアイドルか、四六時中微笑みかけることで勇気づけるアイドルか。実際、一昨年、昨年とふたりが1位を分け合ってきたし、個性は違っても両者はAKB48という組織のためにいるパーツだった。AKB48を壊す、守る、続ける。言い方はそれぞれであっても、組織のことを考えたときに自分がすべき「部分的役割」というものを掲げていたように思う。今年も渡辺麻友はその手の立派なスピーチをした。

しかし、今年の指原の言葉は違っていた。

「私もこの1位で3回目の1位になります。どうかどうか私を1位として認めてください」

組織のことを語る前に、圧倒的な勝利でも埋められない個人的な葛藤を吐露した、ように見えた。連覇をしたから許される個人的な発言、のように見えた。しかしこれは決して増長の結果ではない。ただの個人的な発言ではなく、総選挙の歴史を紐解けば、あるとてつもない意味が込められている言葉だったと分かる。8回目を数える総選挙において「この意味」を込めたスピーチが許されたのはたったひとりしかいなかった。

「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」

この前田の言葉と、今回の指原の言葉に共通しているのは、「自分のファンではない人に向けてのメッセージ」であるということだ。

これは組織の顔であると自他ともに認められた人にしかできない。自分のファンとの間にはわざわざメッセージをしなくても揺るがない絆があると確信している人にしかできない。

そしてもっと言えば、個人の物語が組織の物語と同一になるステージに到達した人にしかできない。

指原は前田のいた地位まで登りつめたのだ。そしてさらに指原の言葉には前田の頃にはなかった組織に対する焦りが足され、私が1位であるAKB48という組織を認めろ、という脅迫にも近い言葉となり、7万票差という歴然とした結果とともに前述の「指原的」「渡辺的」という時代に完全に終止符を打った。つまり指原は「渡辺的価値観」のアイドルとそのファンに対して、大袈裟に言えばそのアイドルに対する信仰を改宗しろと迫ったのだ。

ただ、その乱暴なほどの「指原的一統」はそうしないことにはAKB48が瓦解するという危機感のあらわれでもあり、個人が組織になってしまったことの裏返しでもあり、本来であれば(つまり指原が「つないだ」先の受け取り手がいれば)、その機会がすでにあったはずの彼女の引き際をよりいっそう困難なものにした。

48グループは、東京にAKB48、名古屋にSKE48、大阪にNMB48、福岡にHKT48、そして今年新潟にNGT48をつくり、もはや選抜メンバーたちは「JPN48」と呼んでもいい。ただ同時にそんな規模になっているにも関わらず、今は「SHR48」(SASHIHARA48)でもあるのだ。

この重荷、いつまで耐えうるか。こんな重荷、誰が受けとれるというのか。

「作詞家」としての小室哲哉

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小室哲哉はプロデューサー、作曲家、または演奏者としての評価が先に立つが、私は作詞家としての小室哲哉がもっと語られてもいいのではないかと常々思っているのだ。
※作詞家としての売上枚数で見ても秋元康阿久悠松本隆につづく歴代4位である。

彼がプロデュースしたアーティストが売れまくっていた90年代半ばは、日本はバブル崩壊後の経済的価値観の変容が起こりはじめていて、加えて阪神大震災オウム真理教、神戸幼児連続殺傷事件など、未だその衝撃が残り続けている出来事たちが世間を揺るがしていた。

そんな中、本格的にプロデュース業をはじめていた小室哲哉は若い女性アーティストたちにひどく曖昧なメッセージを歌わせつづけた。

「二十歳やそこらで 人生のモチベーション 身についたら シラケるだけだし」

「鏡に映ったあなたと2人 情けないようで たくましくもある」

「街中でいる場所なんて どこにもない 体中から 愛が溢れていた」

「こんなに夜が 長いものとは 思ってもみない程 さみしい」

「ときには誰かと比べたい 私の方が 幸せだって」

一様には言えないが、過剰な悲愴感を感傷的な(日本語すら破綻するほど感傷的な)言い回しで伝えるというのが、作詞家小室哲哉の真骨頂だったように思う。しかしそこで描写される具体性はあまりなく、聞いていて脳裏に情景が浮かぶということはないから、どうにも曖昧なメッセージに映るのだ。だから、彼は突出したメロディメーカーとしての才能に隠れがちな「作詞家としての才能」を評価されづらかったのだ。

しかし、空気のようにあるのかないのか分からない時代の感覚という曖昧さを、その曖昧な歌詞で見事に掬い取っていたのが小室哲哉であったと私は思う。

たとえば、現代の大作詞家のひとりである桜井和寿が同時期(1997)に発表したミスター・チルドレン「es~Theme of es」にはこんな歌詞がある。「何が起こってもヘンじゃない そんな時代さ 覚悟は出来てる」。冒頭で述べた世間の混乱にかなりストレートに力強く物申しているし、またそうしたアーティストの姿勢の方が比較的容易に伝わりやすく、勇気づけるものだとは思う。

一方の小室哲哉はそのあたりをなんとなく避けていた「作詞家」だったように思う。その代わりかどうかは分からないが、上記のミスチルのシングルの前年、彼はそんな時代にあってglobe「is this love?」(1996)でKEIKOにこう歌わせている。

「やさしさだけじゃ生きていけない でもやさしい人が好きなの」

こう比べると「小室哲哉は世間にコミットメントしようとしていなかったのでは」と非マッチョ系だとも考えられがちだが、そうではない。影響力を自覚している表現者として他者との関わりは排除しようとしても排除できるものではない。ただし、彼の場合コミットメントしようとしたのが世間そのものではなく、そこで生きているだろう名も知らぬひとりの少女であったのだと思う。

そう思い調べてみると昨年本人もインタビューで「僕はひとりの女性の全く見えない孤独を歌詞にしてきたつもりです。胸を撫で下ろしたとき、ふとひとりになったとき、そういう部分はみんな持っていると思います。なるべく自覚して自立しているんだけど、けっこうキツイなというギリギリの女性像をどこかで書きたかったんです。(中略)“貫きたいけど揺らぐ”“揺らいでいるけど貫く”みたいな、行ったり来たりの感情の揺れを書いてきました。みんなそこの葛藤と共に生きている。そういう生活をしていることを伝えたかったんです。」と自身の歌詞について答えている。

勝手なイメージだが、小室哲哉の歌は当時流行りはじめたブルセラショップに自分の制服を売る、また援助交際プラダの鞄を買ったりするという現象そのものではなく、そういうことをするかもしれないという可能性と同じ感覚で、ある意味軽やかに恋をしたり夢を見たりしている少女の毎日にとてもよく似合う(このイメージには当時私自身が田舎の高校生で東京的なものをまとめて見ていたという個人的なノスタルジーが作用してはいるが)。しかし逆に言えば世間を揺るがすような大事件には似合わないのだ。

つまり、いっしょに立ち向かうのではなく、また叱責するのではなく、ただただ寄り添う者として「『二十歳やそこらで 人生のモチベーション 身についたら シラケるだけだし』ね。でもマジで『鏡に映ったあなたと2人 情けないようで たくましくもある』よ、絶対ー。『街中でいる場所なんて どこにもない 体中から 愛が溢れていた』んだよね、分かるよー。たしかに『こんなに夜が 長いものとは 思ってもみない程 さみしい』よねー。『ときには誰かと比べたい 私の方が 幸せだって』思わなきゃやってられないよね。」と、まるで深夜の長電話の相手のように一見すると薬にも毒にもならないようなことを、それでもずっとずっと話しつづけてくれる相手だったのだ思う。

小室哲哉の歌詞はアジテーションでもなく、説教でもなく、「繋がっているよ」という、たとえるなら当時はまだなかったSNSのような、嘘っぽいけれど手放せない希望のようなものだったのではないだろうか。

大きな事件や特定の個人に世相などないのだ。ほんとうの世相、言い換えれば空気のようにあるのかないのか分からない曖昧な時代の感覚は、その時代を生きる一人ひとりにしかない。

そしてそんな曖昧さでしか繋がることのできない部分と小室哲哉はたしかに繋がっていた。それは奇跡のような作業だと思う。

彼とのタッグで最も成功をおさめたと言える安室奈美恵が、自身の身内にとてもツラく悲惨な事件が起こったあと、わずか12日後の歌番組収録でプロとして涙を見せずに歌った「RESPECT the POWER OF LOVE」にはこんな究極の小室節がある。

「どうして こんなただ 前に進まなきゃならない?」

そして彼女は後日「あの当時、歌う曲が『RESPECT the POWER OF LOVE』で本当によかった。歌っていて自分も元気になれた。もし他の曲なら泣いて歌えなかったかも」と語ったという。

アーティストの実人生、つまりは安室奈美恵の「ひとりの少女の部分」にとっても、ただ寄り添う者としての歌詞を結果的に提供していたのだ。やはり小室哲哉は「作詞家という才能」を含めての稀代のプロデューサーなのである。

「安室ちゃん」の意味が変わった。

サミットと言えばまず安室奈美恵を思い出すくらい政治的関心のない私だが、彼女は今年39歳になるという。しかしますます「安室ちゃん」である。

彼女はデビュー当時から「安室ちゃん」と呼ばれていたわけだが、その愛称にこめられた意味が一度変わっている珍しいアーティストだ。

小室哲哉プロデュースによる「歌って踊れる顔の小さい女の子」だったときの「安室ちゃん」はまさにアイドルであり、音楽番組やバラエティ番組にも出演しては愛らしい笑顔を見せ、ファッションアイコンとして「アムラー」と呼ばれるギャル文化の先駆けを作っていた。

ただアイドルとは言え、当時から女性ファンをかなり意識した楽曲、ファッション、立ち居振る舞いではあり、「安室ちゃん」という愛称もきっと女性が呼びはじめたであろうし、また女性が呼んだ方がしっくりくるものであった。

だが安室奈美恵は2001年以降小室哲哉プロデュースを離れ、アイドルから自身の志向を色濃く反映した路線へと自らの舵を切った。

そう至るにどのような過程があったかは当然分からないし、彼女のプライベートからの推論は控えるべきだが、事実として楽曲からファッション、そして立ち居振る舞いが大きく変わった。

しかし顔の見えるプロデューサーの手を離れることにより、安室奈美恵はいっそうアイコン化した。それは簡単なことではない、大物プロデューサーから離れていったアーティストは他にもたくさんいるが、自身についてしまった色からの脱却や、露呈する自らのセンスを磨くことやそれに対する力みが見透かされないようにするには苦労があるはずだからだ。

だが安室奈美恵はむしろその才能を抑えつけられていたかのように即座に新しい「安室ちゃん」を解放した。渋谷で買った厚底ブーツからルブタンのヒール、黒く焼けた肌から年齢を感じさせない美肌、そして何より歌う内容も毎日への怒りや未来への未熟さから、毎日への愛おしさや未来への希望へ。

これらはかなり強引な変化のように思えたが、ファンはついてきた。何故なら以前のファンたちも大人になっていたからだ。

安室自身この変化を20代半ばで迎えているが、彼女のファンのボリュームゾーンである同世代の女性ファンたちも20代半ばで「そろそろアムラーとかじゃないよね、スイートナインティーンブルース終わったし、安室ちゃんの歌とか25歳で聴いてるとかヤバいのかなあ」と思いはじめていたわけである(まさに私の姉がそうだった)。

そこにきてそんな悩める彼女たちの眼前で「安室ちゃん」は強引に変身した。「昔はいろいろあったけど(この感じがけっこう大事)いまは強く、かっこよく、それでいて優しい女性」としてライブでも余計なことは喋らず、時にラッパー、ソウルシンガー、韓国アイドルを従えて歌うのである。戦闘力大幅アップの第二変態を遂げて、再び同世代にとっての理想的な道標になったのだ。

しかし最初から今の安室奈美恵では売れてはいないだろうと思う。冒頭で述べたようにどんなに強く、かっこよくなっても「安室ちゃん」がそうなったことが大事であり、その共有された時間に価値がある。だから彼女は今でも「安室ちゃん」と呼ばれている。昔とは違って、その変化や年月に対する敬意をこめて。

卓球選手の福原愛が未だに「愛ちゃん」と呼ばれるのと同じで、彼女も負けん気が強くワガママなのにチヤホヤされていた幼少期にみんなが心のどこかで「この子いい大人になれるのかな」と勝手に心配していたら見事に素晴らしい選手かつ素晴らしくいい大人になったから、みんな未だに「愛ちゃん」と呼べるのだ。

九州沖縄サミットで安室奈美恵が歌っていた「ネバーエンド」。終わらないためには変わらないといけないとその後の彼女自身が実践している。