SMAPの「僕ら」にはどうしてこんなに特別な響きがあるのだろう。

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昔、山下達郎が自身のラジオ番組で「夜空ノムコウ」を聞いた感想として「SMAPは今の自分たちがこの歌を歌うことの意味、魅力をわかっていないのではないかと思うほどにいい」と褒めていた(言い回しはうろ覚えだが)。ラジオを聴いていた私は、山下達郎が褒めたよという驚きと、SMAPの持つ魅力の根っこになんとなく触れた気がしたのを記憶している。

それは若者の体現者としてだったり、男の子の体現者としてだったり、誰でもないけど確かに誰かである「主人公」を体現するというチカラだと思うが、それは他のアーティストや作家でも長年愛される人たちであれば、独自の決まった「主人公」をまとっていることはよくある。ミスターチルドレンの歌に出てくる「僕」は彼らのどんな曲にも登場する同一人物だと思えるし、村上春樹の小説に出てくる「僕」も彼のどんな話の中にも登場する人格に思える。ただ、彼らの場合のそれは彼ら自身が書いている創作物の中においての話だ。

 

しかし、一時期の(しかも長期間に渡る一時期の)SMAPが歌う歌の場合は違う。他者が書いているにも関わらず、ずっとSMAP自身が「僕」だった、「僕ら」だった。「あれから僕たちは何かを信じてこれたかなあ」と彼らが各々の音程で歌うとき、その詩を書いたのがスガシカオだと知っていても、聴いている側には「SMAPが主人公」の物語の一節として聴こえてきた。そして、物語の主人公たるSMAPはその成長をずっと世の中が見守ってきた稀有な「男の子」たちだった。アイドルという遠い存在のはずなのに、みんなが見守っていた仲良し(に見える)5人組の「男の子」だった。だからこその、冒頭の山下達郎の言葉なのである。

 

極端に言えば結婚式で新婦の父親が娘のために歌を歌うとする、どんなに下手でも、家族にはその歌声は沁みるだろう。登場人物のことをみんなが知っているからだ。そこに歌以上のものを聴き取るからだ。SMAPの歌はそれに近い。

 

しかしなぜ手が届かないところにいるはずのアイドルが、世の中にとってそんなに身近な存在になりえたか。それはSMAPが売れた「理由」そのものにあると思う。SMAPはアイドルの主戦場であった歌番組がなくなっていった時代に、バラエティ番組を新しい活躍の場として選び、アイドルらしからぬ挑戦をしたことが成功の一因だと言われる。

 

つまり、SMAPは歌手以外の顔をこれでもかと世の中に見せてきたアイドルグループなのだ。コント、フリートーク、MCなど、ひとりの若者として、または男の子としての「素」の部分を男性アイドル史上かつてないほど見せてきた。しかもファンじゃないお茶の間を相手にして見せてきたのだ。それはやはりアイドルじゃない部分、本来は不得手な部分と言い切ってしまっていいかもしれない。だから最初はつまらなかったり、下手だったりした。でも、ゴールデンタイムで世の中が見守る中で今や彼らは押しも押されぬバラエティ番組の切り札に、数多くの大物芸能人を仕切る司会者に成長していった。これはもう、結成して25年をかけた壮大なトゥルーマンショーなのである。

 

これだけ息長く、第一線で10代から40代までをさらけ出してきたタレント、いや人間はそうはいない。しかもグループとしてである。年月の中で時折起こるリアルな事件もその成長譚のひとつのチャプターとして格納してしまえるほどにさらけだしてきた。そうして実像と虚像が長い時間をかけて溶け合ってしまった。しかしそれは常人には真似のできない努力の結果でもあった。

そんな「歴史」の中で、まさに夜空ノムコウの頃からだろうか。おかしな逆転現象が起こりはじめたように思う。「素」の部分だと思われていた歌手以外の活動が「タレントとしての努力」と映りはじめ、彼らが歌う歌にこそ、たまたまSMAPというグループにいる男の子たちの「素」を感じはじめた気がするのだ。繰り返すが、それが山下達郎の言う「SMAPは今の自分たちがこの歌を歌うことの意味、魅力をわかっていないのではないかと思うほどにいい」という発言の真意だったのではないかと思うのである。

 

SMAPが歌う「僕」や「僕ら」がこんなにも特別な響きを持っているのは、聴いている人がそのひと言にだけ20年以上も本当の意味では自由ではなかった、どこかに置いてけぼりをくらった男の子たちの男の子としての一瞬を垣間見るからではないだろうか。

「あの頃の未来に僕らは立っているのかな」

18年前の代表曲にあるこの自問。今回の報道の結末がどうなるにしても、18年後解散がこれだけのニュースになるグループになっているという未来は、今後どんなグループアイドルが出てきても決して立てない未来である。