それでも僕たちは、宇多田ヒカルを必要としていた。

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宇多田ヒカルが復帰した。「人間活動宣言」後、結婚と出産を経て少しだけ「ぼくたち」から距離を取ったように見えた彼女だったが、復帰作を聴くと彼女が以前よりもとても近くで語ってくれているような気がしてファンとしては嬉しい。

90年代にはその鮮烈なデビューで小室哲哉を終わらせ(小室哲哉本人がそう公言している)、00年代にはその有り余る才能をまき散らしながら走り抜けて誰と比べられることもないレベルにまで大成した。そして前のめりに倒れ込むように「人間活動宣言」という彼女らしい物言いでの活動休止に入った。20年前「ぼくたち」の前に突然現れた彼女は、消えるときも突然だった。だから大げさでなく日本中がその復帰を待ち望んでいた。

宇多田ヒカルを見聞きしていて思うのは「才能というのは誰にでも理解できるものなのだ」ということだ。音楽に詳しくないからとか、逆に詳しいからとか、若いからとか、同世代じゃないからとかは関係ない。言わずと知れた彼女のデビュー曲「Automatic」を初めて聴いたとき私は、まだ17歳だったし、音楽的な新しさなどは分かるはずもなく、かつ彼女の顔もまだ見たこともなかったけれど、この人には「才能」があるのだと感じた。そして、その感覚が日本中に肥大したからこそファーストアルバム「First Love」は前代未聞の700万枚を売り上げたのだ。

分かる人にしか分からないものなど本当の才能ではない。圧倒的にメジャーになれるものこそが「才能」なのだ。彼女を見ているとそう感じる。彼女の書く詩は決して分かりやすくない。メロディーもみんなで盛り上がれるかと言われればそうでもない。それなのにその「才能」への理解はとてもイージーだ。当然、まず「ぼくたち」が彼女の才能を知るのは彼女の声であり、歌詞でもメロディーでもない。理解を必要としない「声」に生理的な反応をするのである。しかし、彼女の場合それだけではない。

「ぼくたち」は彼女の決して分かりやすくない何かを理解しているのだ。復帰作のひとつであるNHK連続テレビ小説とと姉ちゃん」主題歌『花束を君に』を聴いても、歌い出しで「普段からメイクしない君が 薄化粧した朝」とうそぶく彼女の声が耳に潜り込んでくると琴線が、いや私などは涙腺が反応する。

宇多田ヒカルは「諦念」を歌ってきたと言われる。あの人とは結ばれないだろうけど、きっとまたうまくいかないけど、かなしいこともまだまだあるけど、愛かどうかなんて分からないけど、それでも、それでもとその声で歌ってきた。

彼女は以前、漫画家浦沢直樹(宇多田=諦念を指摘していた)との対談の中で自身の創作の原点のひとつに小学生のときに書いた俳句があると語ったことがある。それは「おーい!お茶」の俳句コンテストに応募するために作ったものだそうだが、その記事を読んでから十数年経ったが私は未だにこの俳句が忘れられない。

『雪だるま いっしょにつくろう とけるけど』

このエピソードの「周辺」に「ぼくたち」が彼女を理解してさらに琴線、人によっては涙腺まで刺激されてしまう理由がある気がする。解釈など野暮だが、雪だるまというただでさえ意味のないもの、しかも溶けてしまってなくなってしまうものを、それでもつくろうという圧倒的な切なさがこのときからある。

結ばれないのが「First Love」。きっとまたうまくいかないけど「Keep tyin’」。かなしいこともまだまだあるけど「STAY GOLD」。愛かどうかなんて分からないけど「This is LOVE」。

つまりは判官贔屓諸行無常、雪に耐えて梅花麗し。

日本で育った「ぼくたち」の心のどこかに潜んでいるその手のパブロフの犬が、宇多田ヒカルによって「泣かされている」のだ。

「ありがとうと 君に言われると なんだか切ない」(The Flavor of life)

分かるか、分からないか、それが問題、ではないのである。