「ドキュメント72時間」が「72時間」であるワケ

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NHK「ドキュメント72時間」がますます面白いのである。

ある「場所」に72時間、つまり3日間密着するだけの番組であるが、毎回の「撮れ髙」の水準が圧倒的だ。たとえば、歌舞伎町の薬局、伊勢崎の巨大フードコート、名古屋地下鉄の遺失物預かり所、大阪天神橋筋商店街のベンチ、秋田のうどんの自動販売機。それぞれの「場所」の前で72時間ひたすら来る人の姿を撮り、時にはインタビューをする。

だが、この72時間という番組名にもなっている「時間内」に来る人にしか話を聞けないという制限が、逆にリアリティのある「人間」を撮ることに寄与していて「撮れ髙」の保証に繋がっているのではないかと思う。

なぜなら3日以上「粘れない」が故に、制作者が「狙えない」からだ。だからその「場所」のリアルが映る。ドキュメンタリーにもストーリーは必要だし、ストーリーまでいかなくてもある程度の仮説は必要だ。その制作者側のストーリーまたは仮説が的を得たり、裏切られたりして展開していくのがドキュメンタリーの醍醐味である。しかし「ドキュメント72時間」にはそもそものストーリーや仮説がないし、あったとしても3日間では成立しない。その3日間の被写体はそんなこと制作者の意図など知ったこっちゃないのである。だがその知ったこっちゃなさが見応えを作っていく。

秋田のうどんの自動販売機の回などはそのことが分かりやすい回だった。「極寒の秋田で一杯200円の自動販売機のうどんを食べに来る人たち」。これだけ聞くと部外者はいろいろなストーリーや仮説を立てたくなる。そして帰結させたくなる。取り残された田舎の問題だったり、清貧の尊さだったり、それでも寄り添う人々の笑顔だったり。

しかし、そんなものはすべて部外者の過剰な期待であると「ドキュメント72時間」は展開していく。

登場するのは手軽に食べられるからと来る事故の多い雪国で働く自動車保険の会社で働くサラリーマン、いつか大切な人が出来たら昔から食べていたこのうどんをいっしょに食べに来ようと思っていたという中年女性と彼氏、若いころヤンチャをしていたときからここに来ていて自分の子供にもそういうときがきたらここに来れば誰かいるから安心だと教える若い母親、そして重篤な病になってしまい人生を振り返るためにうどんを食べにくる洋菓子屋の男性(一年後の追加取材で彼は元気になっていた)。

当たり前の話だが、そこには「いろいろな人がいるだけ」なのだ。同じ問題など誰一人として抱えていない。さらに彼らはテレビに出る準備などせずに登場している。そして、普段準備のできている人たちが出演するテレビに慣れていると、準備されていない言葉たちに時折ドキッとするのである。

先日放送された「北のどんぶり飯物語」という回は仙台にある24時間営業のご飯をどんぶりで出す定食屋が「場所」だった。そこに復興景気の仕事に就くために大阪から単身赴任で来ていたひとりの建設業の男性がいた。彼は言うのである。とんでもないことを言うのである。仕事終わりに入った定食屋でご飯を食べながら、つまりテレビに出る準備など一切していない状態でとんでもない核心と希望を口にするのである。

「なんかが壊れないと建設業って潤わんって言えば潤わんのですよ。だけどそれが誰かが死んだことの上に成り立っていたりとか、引け目感じるじゃないですけど、今回の仕事は誰かの不幸の上に成り立っているなと思う心もあったんですよ。だけど復興でこっちで工事させてもらってますとか言うと、ありがとうとか助かるわとか言うてくれはるんですよ、地元の人らが。だから今生きている人ら、今生活してる人らに対してちょっとは手助けできてるんかなと思うと、やる気はやっぱ出るっすね、そう言うてもらえると」

準備していたコメントではない。常にそう思っているから出てくる言葉の強さ。もちろんその強さは震災のような誰もが知る問題に限らず、名古屋地下鉄の遺失物預かり所で100円しか入っていないけど旦那さんから何の日でもないのにもらった大事な小銭入れが見つかったときの女性の「あった!あった!」という言葉にも、大阪天神橋筋商店街のベンチにいた71歳で不動産業を営む女性の「昔は2,3回殺されかけたことあるわ」という言葉にもあって、準備していない言葉だからこそ短いひと言の中にちゃんとその人がいる。

しかし「ドキュメント72時間」を観て自分の人生を顧みることはない。明日からの生き方を考えるようなことはない。こんな人がいるんだな、あんな人がいるんだなと、前述のようなリアルさで他人の人生を、いや日常を覗き見る感覚以上のことはない。視聴者だって登場人物の一部であって、それぞれが簡単に変わるような軟な人生など生きていないからだ。

ただ、一人で生きていけるはずなどないと知った上で結局は一人なのだということにどう向き合うかが人生であるとしたら、知り合いでもないがリアルな「こんな人」「あんな人」という存在が多少の救い、一瞬の拠り所になることがある。前向きな意味か、後ろ向きな意味かは、いろいろだとしても。