「ゆとりですがなにか」と言われたら?

日テレ系ドラマ「ゆとりですがなにか」のテンションが凄い。脚本家宮藤官九郎の最高傑作ではないかという呼び声も高く、現代版「ふぞろいの林檎たち」であると言う人もいる。まだ5回の放送を終えただけとは思えないほどの中身の濃さであり、その濃さは描いた感情の数に比例していて、たった一言の台詞にもただ物語の展開の為でなく、些細で的確な一瞬の感情が内包されているから一話一話の「人間濃度」がこんなにも濃い。

「(就活に悩む妹に)はあ、イメージしてねえよ、こんな社会人生活。でもやるよ、にいちゃんは。得意先回って、頭下げて、焼き鳥焼いて、年上のバイトにコキ使われて、部下に笑われても、意地でも辞めねぇよ。今辞めたら何にも得るもんないから。元を取るまで辞めねぇよ」

「(教育実習できた女子大生に)僕やあなたにとってはただの一ヶ月の研修かもしれないけど、だけど、だけどね、子ども…あの子たちにとっては一生を左右する一ヶ月かもしれなくて、そう、しれないんだよ!そんな重要な一ヶ月をネットの情報なんかで答え出してほしくないし、だから何が言いたいかというと、その…いい先生じゃなくていいんでいい人間になってください」

「(友人に彼氏との悩みを話していて)まぁいずれ結婚するんだろうけどさぁ。あいつ結婚を舐めているっつうか、結婚を何かの理由にしようとしてる感じがミエミエなんだよね。そういうじゃなくて私は結婚だけがしたいの。分かる?余計なものが一切ない、理由なき結婚。童貞がセックスだけしたい、みたいなもんよ」

「(夜の街で働きながら東大を目指して11浪中の男が)入れそうな大学入って、入れそうな会社入って辞めずに続けてんだよ。すごくね?ゲームでいったらレベルアップしないで何回も何回も同じこと繰り返してるわけじゃん、余裕でクリア出来るステージを。無理だわー、ないわーその才能。だから(自分は)こんな暮らしなんだな!!」

もちろん、上記の台詞はもちろん100%の本音ではない。葛藤の吐露でしかない。どの台詞も登場人物たちの本音を隠していて「他者」に言うのならばこういう言い方であるというフィルターをかけている。「こいつには背伸びしてもバレない」とか「なんだかんだ口説きたい」とか「実は今話しながら考えている」とか「自分のポジション的にはこーいう発言だろ」とか、フィルターがかかっている。しかしそれがリアルだ。

このドラマは「ゆとり世代」をテーマにしているように見えてその実はまったく関係なく、登場人物たちが自分たちの世代をそう名付けた大人たちに反発するわけでもない。それぞれの毎日を生きているだけだ。当たり前だ。「ゆとり」などただの教育方針の一側面だ。それで世代そのものが変容するわけがない。未来は教育に対してそこまで従順なはずはない。

だから「ゆとり」というのは作中でも度々出てくる「これだからゆとりは」という言葉に象徴されるように、ただのこじつけられた「理由」である。さらにはそもそも「○○世代」なんて言葉自体、そーいう言葉を作って新書でも出そうかと考えている大人側の見方である。つまり、大人から見た「彼ら」でしかないということなのだ。では「彼ら」の中にいる「彼ら」自身がどう思って生きているか。ドラマ「ゆとりですがなにか」はそこに入り込もうとしている。

そして実は描いているのはただ一点「なんかうまくいかねえなあ」という実感だけであり、そして「うまくいかない」なんてことは世代に関わらずそうであるはずで、それをたった数年間の「教育方針」のせいなんかにされちゃますます堪らないというプラスαとして「ゆとり」を取り上げているに過ぎない。

しかし「ゆとり」であるからではなく「若い」から彼らにはまだ理想がある。それが先ほど引用したリアルな台詞たちだ。そしてそのリアルさの不可抗力として観る側に伝わってくるのは、そんな強烈な「一人ひとりのリアリティー」ですら陳腐に見せてしまう「ゆとり」という名前をつける世の中のテキトーさと怖さ、実体のなさなのである。

つまり、何事も「乱暴な総論」に対抗するにはとことん「リアルな各論」を掘り下げるしかないのである。それこそがフィクションの存在する意味であり、また、できることなのだ。