「しくじり先生」という教科

テレビ朝日しくじり先生 俺みたいになるな」はもはや言わずと知れた人気番組である。内容は世間的に見て「過去にしくじった」人を先生として招いて「自分と同じようなしくじりをしないように」という内容の授業が行われるという番組だ。

今までに出演した先生たちには、オリエンタルラジオ杉村太蔵、新垣隆、保田圭堀江貴文、大事MANブラザーズ、GG佐藤などなど名前を聞いただけで「何をしくじったのか」を多くの人がイメージできる「しくじりビックネーム」が並んでいる。

ただ、彼らは決してテレビタレントとしてのビックネームではない。いま普通にテレビに出ただけでは『豪華キャスト感』はない人たちだ。しかし彼らが自身の「あの」しくじりを語るとなれば話は違ってくる。そのときの『豪華キャスト感』は極端に言えば、ビートたけし吉永小百合に勝るとも劣らない(言い過ぎか)。これはこの番組が見出したオリジナリティのある仕掛けだ。

つまり「しくじり」は強烈な個性の裏返しなのである。前述したように名前を聞いただけでまずその人のしくじりが思い浮かぶくらいだ。それは個性であり、テレビにおいてはすなわち魅力でもある。もちろんそれだけでは、実は彼らがワイドショーやスポーツ新聞を賑わしていたときの魅力と変わらない。他人にイジられることで価値が出ているというだけだからだ。しかし「しくじり先生」という番組は、そこをさらに裏返している。

この番組では徹底して自分で自分のことを語らせている。第三者の解釈はそこにない。自分で自分のことを語る、これは元来一番つまらないはずの話である。見栄だったり、虚飾だったり、見え透くものが多くなるからだ。ただこの番組に出てくる人たちはしくじりを話しにくる。それも世間の大多数が知っている「大しくじり」を話しにくる。隠すものなどもはやないから、むしろ曝け出しにくることが目的になっている。それはまるで嘘をつけない告解だ。

そうして彼らはしくじった当時、週刊誌や世間が聞きたかったことを詳らかに大袈裟なほどの自己演出をもってして曝け出していき、最後には話す方だけでなく「聞く方」も涙を流すことも多い。

そう、この番組が裏返したのはここなのである。野次馬だったはずの「聞く方」にも変化を促していくのだ(当然ここで言う「聞く側」とは番組上の「生徒」だけでなくテレビを見ている視聴者も含まれる)。しくじった自らがあまりに本気で曝け出して語ってくるので、聞いている側も逃げられなくなるからだ。野次馬は背中には野次を飛ばせても、正面を向いている相手にはなかなか野次を飛ばせないものである。

そして最初は「しくじり先生」の「しくじり」の部分しか知らず「アレやっちゃった人だ」とか「うわ、よく出でくるな」と思っていた「聞く側」も、次第に彼、彼女の人間性に触れていくことになるのである。

それは他者への理解の本質だ。

この番組は「自分と同じようなしくじりをしないように」ということが表の番組コンセプトだが、結果として実は「他者への理解とは?」という難しくも意味のあることを提言している番組だと思う。

たとえば私は「オリエンタルラジオってすぐ売れたけどすぐ消えたよね?」以上のことを理解しようとしなかった。「杉村太蔵って失言ばっかりしてよくわかんない議員だったよね?」以上のことを理解しようとしなかった。「新垣隆って何十年もゴーストライターやってかわいそうだね?」以上のことを理解しようとしなかった。

でもそれぞれにその渦中においての理由があり、苦悩があり、その後の気づきがあり、今では新しい希望がある。偉そうに言うとそこに人間的成長がある。この番組はそのことを道徳的にではなく、エンターテイメントで理解させる。

私自身、友人知人との過去を振り返ってみても、彼、彼女のやったことは知っていても、彼、彼女自身のことをどこまで知っていただろうかと思う。

どちらを知ることを優先した方が生きやすいのかは分からないけど、「しくじり先生」を観るといつも人間関係の中で生きていると言いつつ「やったこと」ばかり知っているなあと思うのである。