私がその日婚姻届を出さなかった理由

こんなことをこんな風に書くのもどうかと思いつつ、生まれ持った業ゆえにお許しいただきたいのだけれど、今年の5月5日に入籍をしたのだが、本当は大安の5月3日に籍を入れようと目論んでいたにも関わらず、「とある理由」でその日を諦めたことについてである。

予定していた5月3日は連休中ではあったがご存知の通り区役所は深夜でも婚姻届を受け取ってくれるわけで、昼間は都合があった私たちは夜に出かけていった。

あいにくその夜は雨が強く降っておりタクシーでびゅーんと役所に向かったもののなんとなく暗くてジトッとしていて、決して明るい未来のはじまりを飾るには向いているかと言われれば決して向いていない状況だったわけだけれど、夜とか雨とかそんなものに負けているようじゃこの先も思いやられるというか、夜すらロマンティック、雨すらいい思い出にできてはじめて夫婦になれると誰が言っていたわけでもないけれども、まあまあそんな面持ちで書類を濡らさぬように向かったわけである。

区役所は当然夜間受付窓口しか空いておらずビチャビチャと歩いていくが誰もいない。警備員がいるはずで彼に預けて後日受理されると聞いていたのだが、警備員の姿が見えない。しかし受付の電気はついている。おかしいね、なんて濡れた服を拭いたりしていたら、薄暗い役所の奥の方から物音がした。

廊下の少し先にある扉が開いて光がもれている。どうやらそこはトイレである。中から警備員のおっさんが出てきた、のはいいのであるが、彼も当然こんな夜に来客とは思っていなかったのであろうか。

用を足したときに下げたズボンを上げきらずに出てきていたのである。両手でチャックやらベルトやらをガチャガチャしながら歩いてきたのだ。そして私たちに気がついたのだが、その時も両手は股間にある。

私は数十秒後の未来を想像する。「あ、婚姻届です」と私たちがそれなりの緊張と覚悟をもって書いた書類を差し出す。「あ、確かに受け取りました」と警備員は書類を両手で受け取る。

ちょっと待て。私たちの婚姻届を触る前に彼が触ったものは股間だということになる。しかもズボンも上げずに出てくるくらいの人だ、ちゃんと洗っているのかどうかも疑わしい両手である。

夜にも雨にも負けずになんとかここまでやってきた私ではあったが、警備員の何かしらで濡れた両手には勝てる気がしなかった。「受け取りできますよ」警備員は笑顔でそう言った。もちろん悪い人ではない。どうする。35歳まで生きてきてこんな小さいことを気にする男を嫁はどう思うだろうか。

度量が試されているのだろうか。でも嫌だ。嫌だよ。今日という日を思い出すたびに、きっと「ガチャガチャ」というチャックやらベルトを触る音が聞こえ、雨に濡れないようにと大事に持ってきた婚姻届がおっさんの何かしらであっさりと濡れて広がる染みが瞼の裏に浮かぶ。そんな日にはしたくない。

「今日はやめておこう」

何の説明もせずに私が発したこのひと言は土壇場マリッジブルーとも取られかねない危険なひと言だったと思うけれども、嫁は私のテンションが警備員を見た瞬間に急激に下がったことを察していたらしく、ただ「わかった」と言った。そうして私たちは出さなかった婚姻届を濡れないように、濡れないように、行きよりもいっそう大事に抱えて帰った。

しかしである。翌々日の5月5日の晴天の昼間に警備員ではなく嘱託職員に無事提出したのだが、あれから4ヶ月が経ち、「どうして5月5日にしたの?」と聞かれるたびに本当のことは言わないまでも、結局私の耳には「ガチャガチャ」という音が聞こえ、瞼の裏には広がる染みが浮かぶのである。

原因は回避するだけでは駄目なのだ。向き合って解決しなければ原因はついて回るのである。

私はあの時、警備員に「もう一度手を洗え」と迫っておかなければならなかったのだ。

せめてこれからの夫婦生活の参考にしたいと思う次第である。