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人類が二度と見られない負け姿 吉田沙保里
第8回AKB48選抜総選挙 指原莉乃が背負ったもの。
243,011票。
今回初の連覇を成し遂げた指原莉乃がひとりで集めた票数は、あの前田敦子と大島優子が最後に雌雄を決した総選挙でのふたりの獲得票数を足した数字に匹敵する。昨年の指原自身の獲得票数から見ても5万票も上乗せしてきた過去最高の票数だ。5万票とは、今回で言うと12位である北原里英の票数とほぼ同じであり、つまり指原は今年上乗せした数字だけでも選抜メンバーの16位圏内に余裕で入れるのだ。
「この壁は誰も越えられない」
惨敗(あえてこう書くが)した2位の渡辺麻友は壇上でついにそう言った。みんなが薄々思っていたが、言ってしまっては終わってしまうこの台詞をついに言った。渡辺にしても個人的には17万5千票という過去最高の数字を叩きだしていたにも関わらず、そしてまだ指原が何票獲得したか聞いていないにも関わらず、「この壁は誰も越えられない」と断定した。それがどんな壁なのかも分からないけれど、「自分のやり方」では越えられないということだけは確かであると実感しているといった物言いだった。
指原の票数の理由を語るときには、アイドルの中にタレントの知名度が混ざっているからだとか、HKTという組織をまとめあげているからだとか、露出が段違いに多いからだとか、いろいろと憶測が語られるが、本当の理由は分からない。しかし裏返すと「本当の理由は分からない」と言わせてしまうのが彼女の、彼女だけの凄味なのである。つまりは、その憶測される理由はきっとすべて正解だからだ。いくつもの理由が集まっているからこそ、243,011票なのである。
最初は「指原が1位になったらAKB48は面白い」という動機が確かにきっかけであったのかもしれない。ただそれは、前田・大島以後の新体制をファンもスタッフも無意識に模索していた数年前、決定的な次世代が台頭していなかったこともあり、指原というトリックスターをあくまで「つなぎ」として1位にしたら面白いというレベルでの「ムード」にすぎなかった。
しかし指原莉乃はその「ムード」に全力で乗り、乗り続けることでムードをムードでなく事実にして、果ては「誰も越えられない壁」にした。運や流れを一過性のものにしないためのこの数年間の彼女の才覚や努力はずば抜けていた。彼女はその活動がアイドルの域を超えているのだからと否定的な意見も耳にするが、その場所に行くための才覚や努力がアイドルの域を超えていただけなのである。だが、その無駄のない、パワフルな年月にも葛藤があったことを昨年のスピーチでは語っていた。
「AKBはそんなに簡単な場所じゃないです。たくさんの人が悩んで悩んでやっとここまできています」
前田・大島が卒業したころ、私は今後のAKB48はアイドルの先頭を走る存在として「指原的」か「渡辺的」か、どちらの価値観をアイドルとして是とするかが分かれ道であり、またその価値観の切磋琢磨がより組織を強くするだろうと書いていた。
つまづく姿を見せることで勇気づけるアイドルか、四六時中微笑みかけることで勇気づけるアイドルか。実際、一昨年、昨年とふたりが1位を分け合ってきたし、個性は違っても両者はAKB48という組織のためにいるパーツだった。AKB48を壊す、守る、続ける。言い方はそれぞれであっても、組織のことを考えたときに自分がすべき「部分的役割」というものを掲げていたように思う。今年も渡辺麻友はその手の立派なスピーチをした。
しかし、今年の指原の言葉は違っていた。
「私もこの1位で3回目の1位になります。どうかどうか私を1位として認めてください」
組織のことを語る前に、圧倒的な勝利でも埋められない個人的な葛藤を吐露した、ように見えた。連覇をしたから許される個人的な発言、のように見えた。しかしこれは決して増長の結果ではない。ただの個人的な発言ではなく、総選挙の歴史を紐解けば、あるとてつもない意味が込められている言葉だったと分かる。8回目を数える総選挙において「この意味」を込めたスピーチが許されたのはたったひとりしかいなかった。
「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」
この前田の言葉と、今回の指原の言葉に共通しているのは、「自分のファンではない人に向けてのメッセージ」であるということだ。
これは組織の顔であると自他ともに認められた人にしかできない。自分のファンとの間にはわざわざメッセージをしなくても揺るがない絆があると確信している人にしかできない。
そしてもっと言えば、個人の物語が組織の物語と同一になるステージに到達した人にしかできない。
指原は前田のいた地位まで登りつめたのだ。そしてさらに指原の言葉には前田の頃にはなかった組織に対する焦りが足され、私が1位であるAKB48という組織を認めろ、という脅迫にも近い言葉となり、7万票差という歴然とした結果とともに前述の「指原的」「渡辺的」という時代に完全に終止符を打った。つまり指原は「渡辺的価値観」のアイドルとそのファンに対して、大袈裟に言えばそのアイドルに対する信仰を改宗しろと迫ったのだ。
ただ、その乱暴なほどの「指原的一統」はそうしないことにはAKB48が瓦解するという危機感のあらわれでもあり、個人が組織になってしまったことの裏返しでもあり、本来であれば(つまり指原が「つないだ」先の受け取り手がいれば)、その機会がすでにあったはずの彼女の引き際をよりいっそう困難なものにした。
48グループは、東京にAKB48、名古屋にSKE48、大阪にNMB48、福岡にHKT48、そして今年新潟にNGT48をつくり、もはや選抜メンバーたちは「JPN48」と呼んでもいい。ただ同時にそんな規模になっているにも関わらず、今は「SHR48」(SASHIHARA48)でもあるのだ。
この重荷、いつまで耐えうるか。こんな重荷、誰が受けとれるというのか。
「作詞家」としての小室哲哉
小室哲哉はプロデューサー、作曲家、または演奏者としての評価が先に立つが、私は作詞家としての小室哲哉がもっと語られてもいいのではないかと常々思っているのだ。
※作詞家としての売上枚数で見ても秋元康、阿久悠、松本隆につづく歴代4位である。
彼がプロデュースしたアーティストが売れまくっていた90年代半ばは、日本はバブル崩壊後の経済的価値観の変容が起こりはじめていて、加えて阪神大震災やオウム真理教、神戸幼児連続殺傷事件など、未だその衝撃が残り続けている出来事たちが世間を揺るがしていた。
そんな中、本格的にプロデュース業をはじめていた小室哲哉は若い女性アーティストたちにひどく曖昧なメッセージを歌わせつづけた。
「二十歳やそこらで 人生のモチベーション 身についたら シラケるだけだし」
「鏡に映ったあなたと2人 情けないようで たくましくもある」
「街中でいる場所なんて どこにもない 体中から 愛が溢れていた」
「こんなに夜が 長いものとは 思ってもみない程 さみしい」
「ときには誰かと比べたい 私の方が 幸せだって」
一様には言えないが、過剰な悲愴感を感傷的な(日本語すら破綻するほど感傷的な)言い回しで伝えるというのが、作詞家小室哲哉の真骨頂だったように思う。しかしそこで描写される具体性はあまりなく、聞いていて脳裏に情景が浮かぶということはないから、どうにも曖昧なメッセージに映るのだ。だから、彼は突出したメロディメーカーとしての才能に隠れがちな「作詞家としての才能」を評価されづらかったのだ。
しかし、空気のようにあるのかないのか分からない時代の感覚という曖昧さを、その曖昧な歌詞で見事に掬い取っていたのが小室哲哉であったと私は思う。
たとえば、現代の大作詞家のひとりである桜井和寿が同時期(1997)に発表したミスター・チルドレン「es~Theme of es」にはこんな歌詞がある。「何が起こってもヘンじゃない そんな時代さ 覚悟は出来てる」。冒頭で述べた世間の混乱にかなりストレートに力強く物申しているし、またそうしたアーティストの姿勢の方が比較的容易に伝わりやすく、勇気づけるものだとは思う。
一方の小室哲哉はそのあたりをなんとなく避けていた「作詞家」だったように思う。その代わりかどうかは分からないが、上記のミスチルのシングルの前年、彼はそんな時代にあってglobe「is this love?」(1996)でKEIKOにこう歌わせている。
「やさしさだけじゃ生きていけない でもやさしい人が好きなの」
こう比べると「小室哲哉は世間にコミットメントしようとしていなかったのでは」と非マッチョ系だとも考えられがちだが、そうではない。影響力を自覚している表現者として他者との関わりは排除しようとしても排除できるものではない。ただし、彼の場合コミットメントしようとしたのが世間そのものではなく、そこで生きているだろう名も知らぬひとりの少女であったのだと思う。
そう思い調べてみると昨年本人もインタビューで「僕はひとりの女性の全く見えない孤独を歌詞にしてきたつもりです。胸を撫で下ろしたとき、ふとひとりになったとき、そういう部分はみんな持っていると思います。なるべく自覚して自立しているんだけど、けっこうキツイなというギリギリの女性像をどこかで書きたかったんです。(中略)“貫きたいけど揺らぐ”“揺らいでいるけど貫く”みたいな、行ったり来たりの感情の揺れを書いてきました。みんなそこの葛藤と共に生きている。そういう生活をしていることを伝えたかったんです。」と自身の歌詞について答えている。
勝手なイメージだが、小室哲哉の歌は当時流行りはじめたブルセラショップに自分の制服を売る、また援助交際でプラダの鞄を買ったりするという現象そのものではなく、そういうことをするかもしれないという可能性と同じ感覚で、ある意味軽やかに恋をしたり夢を見たりしている少女の毎日にとてもよく似合う(このイメージには当時私自身が田舎の高校生で東京的なものをまとめて見ていたという個人的なノスタルジーが作用してはいるが)。しかし逆に言えば世間を揺るがすような大事件には似合わないのだ。
つまり、いっしょに立ち向かうのではなく、また叱責するのではなく、ただただ寄り添う者として「『二十歳やそこらで 人生のモチベーション 身についたら シラケるだけだし』ね。でもマジで『鏡に映ったあなたと2人 情けないようで たくましくもある』よ、絶対ー。『街中でいる場所なんて どこにもない 体中から 愛が溢れていた』んだよね、分かるよー。たしかに『こんなに夜が 長いものとは 思ってもみない程 さみしい』よねー。『ときには誰かと比べたい 私の方が 幸せだって』思わなきゃやってられないよね。」と、まるで深夜の長電話の相手のように一見すると薬にも毒にもならないようなことを、それでもずっとずっと話しつづけてくれる相手だったのだ思う。
小室哲哉の歌詞はアジテーションでもなく、説教でもなく、「繋がっているよ」という、たとえるなら当時はまだなかったSNSのような、嘘っぽいけれど手放せない希望のようなものだったのではないだろうか。
大きな事件や特定の個人に世相などないのだ。ほんとうの世相、言い換えれば空気のようにあるのかないのか分からない曖昧な時代の感覚は、その時代を生きる一人ひとりにしかない。
そしてそんな曖昧さでしか繋がることのできない部分と小室哲哉はたしかに繋がっていた。それは奇跡のような作業だと思う。
彼とのタッグで最も成功をおさめたと言える安室奈美恵が、自身の身内にとてもツラく悲惨な事件が起こったあと、わずか12日後の歌番組収録でプロとして涙を見せずに歌った「RESPECT the POWER OF LOVE」にはこんな究極の小室節がある。
「どうして こんなただ 前に進まなきゃならない?」
そして彼女は後日「あの当時、歌う曲が『RESPECT the POWER OF LOVE』で本当によかった。歌っていて自分も元気になれた。もし他の曲なら泣いて歌えなかったかも」と語ったという。
アーティストの実人生、つまりは安室奈美恵の「ひとりの少女の部分」にとっても、ただ寄り添う者としての歌詞を結果的に提供していたのだ。やはり小室哲哉は「作詞家という才能」を含めての稀代のプロデューサーなのである。
「安室ちゃん」の意味が変わった。
サミットと言えばまず安室奈美恵を思い出すくらい政治的関心のない私だが、彼女は今年39歳になるという。しかしますます「安室ちゃん」である。
彼女はデビュー当時から「安室ちゃん」と呼ばれていたわけだが、その愛称にこめられた意味が一度変わっている珍しいアーティストだ。
小室哲哉プロデュースによる「歌って踊れる顔の小さい女の子」だったときの「安室ちゃん」はまさにアイドルであり、音楽番組やバラエティ番組にも出演しては愛らしい笑顔を見せ、ファッションアイコンとして「アムラー」と呼ばれるギャル文化の先駆けを作っていた。
ただアイドルとは言え、当時から女性ファンをかなり意識した楽曲、ファッション、立ち居振る舞いではあり、「安室ちゃん」という愛称もきっと女性が呼びはじめたであろうし、また女性が呼んだ方がしっくりくるものであった。
だが安室奈美恵は2001年以降小室哲哉プロデュースを離れ、アイドルから自身の志向を色濃く反映した路線へと自らの舵を切った。
そう至るにどのような過程があったかは当然分からないし、彼女のプライベートからの推論は控えるべきだが、事実として楽曲からファッション、そして立ち居振る舞いが大きく変わった。
しかし顔の見えるプロデューサーの手を離れることにより、安室奈美恵はいっそうアイコン化した。それは簡単なことではない、大物プロデューサーから離れていったアーティストは他にもたくさんいるが、自身についてしまった色からの脱却や、露呈する自らのセンスを磨くことやそれに対する力みが見透かされないようにするには苦労があるはずだからだ。
だが安室奈美恵はむしろその才能を抑えつけられていたかのように即座に新しい「安室ちゃん」を解放した。渋谷で買った厚底ブーツからルブタンのヒール、黒く焼けた肌から年齢を感じさせない美肌、そして何より歌う内容も毎日への怒りや未来への未熟さから、毎日への愛おしさや未来への希望へ。
これらはかなり強引な変化のように思えたが、ファンはついてきた。何故なら以前のファンたちも大人になっていたからだ。
安室自身この変化を20代半ばで迎えているが、彼女のファンのボリュームゾーンである同世代の女性ファンたちも20代半ばで「そろそろアムラーとかじゃないよね、スイートナインティーンブルース終わったし、安室ちゃんの歌とか25歳で聴いてるとかヤバいのかなあ」と思いはじめていたわけである(まさに私の姉がそうだった)。
そこにきてそんな悩める彼女たちの眼前で「安室ちゃん」は強引に変身した。「昔はいろいろあったけど(この感じがけっこう大事)いまは強く、かっこよく、それでいて優しい女性」としてライブでも余計なことは喋らず、時にラッパー、ソウルシンガー、韓国アイドルを従えて歌うのである。戦闘力大幅アップの第二変態を遂げて、再び同世代にとっての理想的な道標になったのだ。
しかし最初から今の安室奈美恵では売れてはいないだろうと思う。冒頭で述べたようにどんなに強く、かっこよくなっても「安室ちゃん」がそうなったことが大事であり、その共有された時間に価値がある。だから彼女は今でも「安室ちゃん」と呼ばれている。昔とは違って、その変化や年月に対する敬意をこめて。
卓球選手の福原愛が未だに「愛ちゃん」と呼ばれるのと同じで、彼女も負けん気が強くワガママなのにチヤホヤされていた幼少期にみんなが心のどこかで「この子いい大人になれるのかな」と勝手に心配していたら見事に素晴らしい選手かつ素晴らしくいい大人になったから、みんな未だに「愛ちゃん」と呼べるのだ。
九州沖縄サミットで安室奈美恵が歌っていた「ネバーエンド」。終わらないためには変わらないといけないとその後の彼女自身が実践している。